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品川洲崎
広重の『江戸百景品川洲崎』
手前の目黒川と江戸湾に挟まれた「弁財天」が洲崎の先端に鎮座しているこの場所は、広重が「江戸百景」として描いたほどの景勝地だった。
ここには、あるはずの台場が描かれていない。喜遊の時代、本当は下の地図のように野球のホームベースのような形の台場が築かれていたから、広重が発表した、美しい情景はすでに失われていた。
黒船来航以前、目黒川の対岸に突き出た像の鼻のような細長い洲崎だけが存在しており台場の姿はない。この細長いエリアが品川漁師町だ。
江戸払いなった箕作父娘は、この漁師町に移り住んだ。
安政5年(1858年)の地図
現在も洲崎弁天は、同じ場所に存在する。
明治になってから『利田神社』となり、現在の祭神は市杵島姫命。利田の名は、当時この辺りの開発に尽力した利田利兵衛の姓から取ったものだといわれている。
現在の弁財天
現在は、埋め立てにより様変わりした品川洲崎周辺。
赤の点線部分が、御殿山下台場跡。元の地形どおりに道が囲っていて、一回りできる。八ツ山通り(水色の部分)が目黒川だった。その対岸の赤斜線のエリアが、像の鼻の品川洲崎で、品川漁師町と呼ばれる地域だった。その先端にある鯨塚が、広重が描いた品川洲崎。現在の利田神社だ。
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